モル・フランダース

1998/02/16 シネセゾン試写室
ロビン・ライト主演でダニエル・デフォーの原作を映画化。
ナレーション多用の功罪がよくわかる。by K. Hattori



 18世紀のイギリスを舞台に、不幸な境遇に生まれながらも、健気に自分の人生を生き抜いたヒロイン、モル・フランダースを描くドラマ。主演のロビン・ライト、共演のモーガン・フリーマン、悪役のストッカード・チャニング、主人公の恋人役ジョン・リンチなど、粒ぞろいのキャスティングを組んだわりには、映画の中でそれぞれのキャラクターが立っていない。それぞれのキャラクターが助走から全力疾走に移る前に、映画が終わってしまった感じです。正直言って、どこがどう悪かったのかよくわからない。役者は最高、美術やコスチュームにもたっぷりお金をかけてますし、撮影もそれなりに雰囲気を出してます。お話も明快でわかりやすいし、テンポも悪くない。なのにどの場面を観ても、あと一歩というところで物語にコクがないのです。

 孤児院からひとりの少女が連れ出されるところから、物語がはじまります。彼女は映画の主人公モル・フランダースの娘。彼女を連れ出した男は、彼女の母親が娘宛に書いた回顧録を読み聞かせる。そこには、モル・フランダースの、過酷だが花も実もある人生が記されているのだ。映画はここから回顧録の記述に沿って、過去から原題へとフランダースの人生をたどって行く。

 馬車や船の中で回顧録を読む、モーガン・フリーマン演ずるヒブルと、それを書いた、ロビン・ライト演ずるモル・フランダース。両者を交互に描きながら物語を進めて行く手法が、ヒロインの数十年の人生を短時間にまとめる手助けになっています。回顧録の文体をまねたナレーションをかぶせることで、主人公の気持ちや状況を簡単に説明することも出来る。これはすごく便利です。反面この便利さが裏目に出て、物語のコクがなくなっているのも確か。本来なら映像で語らせなければならない主人公の気持ちやその変化を、たった数ワードの台詞で代弁してしまうのだから、これでは役者も何のために芝居をしているのだかわからない。

 主人公の人生の転機となる、ここ一番というエピソードで、もっと芝居自体に物語を語らせてもよかったのではないだろうか。例えば、修道院を追い出されるところ、養家を出て行く場面、娼館に足を踏み入れるシーン、初めて客をとるくだり、恋人との出会いと別れ、子供と引き離される苦しみなど。これらの場面には、すべて彼女自身のナレーションがかぶさり、じつに丁寧にその時の気持ちを語ってくれる。でもそんな感情を、表情や動作で観客に伝えるのが役者の仕事だし、それを引き出すのが映画監督ってものなんじゃないのかね。ロビン・ライトの表情を見れば、彼女の演じているヒロインの気持ちは、観客にもすぐわかる。なのになぜ、それとダブるようにナレーションを多用するんだろう。

 ナレーションがこの映画に特有のタッチを生み出していることは認める。だから全部取ってしまう必要はないでしょう。でもこれは、もっと減らしてもいいし、もっと減らせるはずです。

(原題:MOLL FLANDERS)



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