REPULSION 反撥

1998/02/27 東和映画試写室
若く美しいカトリーヌ・ドヌーブが静かに狂って行く……。
1965年のロマン・ポランスキー作品。by K. Hattori



 ロマン・ポランスキー監督が1965年に撮ったサイコ・サスペンス。ひとりの女性が、静かに、しかし確実に狂気の淵へと滑り落ちて行く様子を、一切の説明なしに淡々と取り上げた作品だ。モノクロ画面の冷たい質感と、情緒的なBGMの使用を排したストイックな構成が、この映画に記録映画的な生々しさを与えている。主演はカトリーヌ・ドヌーブ。彼女の見せる小さな表情の変化や仕種だけで、ヒロインの狂気の深まりを表現す演出も見事だし、それに答えたドヌーブの演技力もすごい。

 観客が彼女の狂気に気がつくまでには、若干のバラツキがあると思う。僕は彼女が登場したときから「へんだな」と思い、洗面所で姉の恋人の洗面道具を棚に並べるあたりで、既に彼女の内なる狂気を確信しました。もっとも普通の観客は、この映画が「カトリーヌ・ドヌーブが気狂いになる映画」であることを知っているのだろうから、「どこで狂気に気付いたか?」という問いかけはあまり意味がないかもしれない。僕は今回、何の予備知識もなしに映画を観たのですが、一般の観客はもう少し予習をすると思います。ただしここで指摘しておかなければならないのは、何の予備知識もなしに映画を観た観客にも、ヒロインの抱えている狂気が、映画の序盤で明確に提示されているという事実です。

 この映画には、彼女が“なぜ狂ったか”は描かれず、彼女が“どのように狂ったか”だけが克明に描写されている。人間が狂気に陥るメカニズムは未だによくわかっていない部分もあるので、容易に「彼女は○○の理由で狂った」と決め付けてしまうと、映画が安っぽくなる。なぜなら、狂気はその原因が分かってしまうと、もはや狂気とは呼べないからです。このあたりは最近の映画『シャイン』などで、上手に逆手にとってました。主人公が異常行動の遠因が観客に明確に提示されているため、観客にとって彼は「狂人」ではないのです。

 本作のヒロインは、あくまでも「狂人」です。だから、彼女の狂った理由は明示されない。ただし彼女の心の裏側を観察し、彼女の言動に隠された意味を「解釈」することはしている。象徴的な小道具をいくつか使って、ヒロインの心の中にある「姉の恋人への想い」を抽出してみせるのです。それは映画の冒頭にもあった、洗面用具をきちんと棚の上に並べる場面が複線になっているわけだし、後半で頻繁に登場する脱ぎ捨てられたシャツに対するこだわりで明らかです。労働者風の男に乱暴に犯される幻覚、切り取られたウサギの首、アイロンがけなど、心理学や精神分析に素人の観客でも、彼女の心の中を「解釈」する材料は豊富に用意されています。駄目押しは、ラストシーンでしょう。ここまでくると、解釈に誤解が入りこむ余地はまったくなくなります。

 楽しい映画でも、人生の意味を考えさせるような映画でもありませんが、僕は単純にスリラー映画として楽しみました。たぶんこの映画に関しては、そうした楽しみ方が一番似合っていると思う。「ああ、面白かった!」

(原題:REPULSION)



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