銀嶺の果て

1998/05/03 有楽町朝日ホール
黒澤明の脚本「山小屋の三悪人」を谷口千吉が監督。
これが三船敏郎のデビュー作です。by K. Hattori



 昭和22年に製作された、三船敏郎のデビュー作。雪山に逃れた3人組の銀行強盗が、山小屋から尾根伝いに山道を抜けて行こうとするのだが、雪崩や仲間割れなどで行く手を阻まれる物語。人間らしい心を見失いかけていた悪党が、純真な少女との交流や、山男の自己犠牲的な行為に触発され、善人に立ち返るという構成になっている。脚本は黒澤明。この脚本はタイトルを「山小屋の三悪人」というのだが、映画化される際『銀嶺の果て』になった。考えてみれば、山小屋にたどり着いた時は、3人組のうちひとりはもう死んだ後なんだよね。黒澤は『三悪人』というタイトルがよほど気に入っていたらしく、後に『隠し砦の三悪人』という映画を作る。

 「山小屋の三悪人」の脚本は、黒澤明の脚本全集で読むことができる。映画は脚本にほぼ忠実なのだが、途中で山小屋守の老人が銀行強盗たちの正体に気づくエピソードがなくなり、かわりに、強盗のひとりが傷ついた山男を背負って山小屋に戻ってからのエピソードが増えている。山男が若い強盗に道普請の話をする場面があるので、その直前にある老人のエピソードは確かに余分だったと思うが、クライマックスの盛り上げは、脚本の方がスッキリまとまっていると思う。

 この物語は、極限状態の中で善に立ち返る中年の強盗と、善へと揺れ動く気持ちを振り切り、悪になりきってしまう若い強盗の葛藤が後半の話題の中心になる。この手の善と悪の対立は、黒澤の作品では定番のモチーフだ。対立は善と悪が戦って、善が勝利を収める(生き残る)ことで終わるのだから、その後の物語は付け足し以外の何物でもない。脚本は若い強盗が谷底へ転落し、中年の強盗が警官の待つ山小屋へと戻って行くところで終わる。エピローグとして、窓から山を見るエピソードがあって「終」となる。ところが映画では、若い強盗が死んでからがやたらと長いため、脚本が本来持っていた「善と悪の対立」という構図がぼけてしまっている。傷ついた山男はどうなったのか、山小屋の老人と少女は事件をどう受け止めたかなど、脚本では物語の余白として片づけられている部分にすべて結論をつけているので、これはこれで親切なのかもしれないけど、僕はこの手の親切よりは、スッキリした切れ味の結末を好むのです。

 今回上映されたフィルムはタイトルが『銀嶺の果て(新版)』になっており、配役のトップに三船敏郎が1枚看板で登場する。映画を観ると、主役はむしろ志村喬扮する中年強盗なんだけど、このタイトルの処理は最初からこうだったのだろうか? それとも、三船の人気が出てきて再上映する際、人気者の三船をトップに出して、彼の主演映画のように仕立てたのだろうか? このあたりはちょっと気になりました。

 この映画の三船敏郎は、黒澤の『酔いどれ天使』などに比べて特別下手な芝居をしているとは思えないのですが、はっきり言って「大根役者」です。でも、従来の型にはまらない大胆なところがあることもよくわかります。


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