ラブ・レター

1998/05/06 松竹第1試写室
中国人の出稼ぎホステスと偽装結婚したチンピラヤクザの話。
浅田次郎の原作を森崎東監督が映画化。by K. Hattori


 浅田次郎の短編小説を、中島丈博と森崎東が脚色し、森崎東が監督した映画だが、これがぜんぜん面白くなくて困ってしまった。主演の中井貴一が、数年前に女房子供に逃げられた、新宿界隈のチンピラヤクザを演じているのですが、これが完全にミスキャスト。この男が持っているだらしなさが、真面目そうな中井貴一からはぜんぜん伝わってこない。この映画の主人公は、確かに本質的には真面目なところがあるのでしょう。だからこそ、中国から出稼ぎに来てひっそりと死んだ女を哀れに思い、世の不合理を嘆き、怒り、涙を流すことができる。でもこの男は、映画の中盤まで、そんな地金がまったく見えないほど生活に汚れ、チンピラヤクザになりきっていなくてはならない。でないと、最後に彼が変身するくだりが、物語のクライマックスにならないのです。

 中井貴一は画面に登場した最初から「誠実な人が無理してヤクザになってる」という感じで、最後にヤクザから足を洗っても、それがあたり前に見えてしまう。あらかじめ予定されていたレールに乗って、予定されていた結末に駆け込んだ中井貴一。これでは、中国からの出稼ぎ花嫁は、何のために死んだのかわからない。彼女の死が、それまで身も心もヤクザな生活に浸りきっている男の性根を突き動かし、使徒パウロのダマスコ体験のごとき衝撃を彼に与えたからこそ、彼は改心して足を洗い、故郷に帰って行くことができたのではないのか?

 出稼ぎ花嫁が主人公に残した手紙を読む場面では、僕もたっぷりと涙を流させていただきました。はっきり言って、この場面はすごく感動的。手紙で泣かせるという点では、クロネンバーグの『デッドゾーン』にも匹敵します。でも『デッドゾーン』は、手紙の場面以外にも泣ける場面がいくつかあったよ。『ラブ・レター』には、手紙以外に泣ける場面がない。皆無です。それはなぜか。中国人の出稼ぎ花嫁はキャラクターの中に実(じつ)があったけど、主人公である高野吾郎には実がないからです。花嫁である白蘭(ぱいらん)の遺書ともラブレターともとれる手紙の中には、苦しい生活の中で、たった数回顔を合わせただけの吾郎を慕い、その面影にすがることでしか生きられない、哀れな女の悲しみがこもっていた。でもそれを読んで涙を流す吾郎の側には、どれだけの同情の余地があるというのだ。

 彼が飲んだくれてみたり、警官に食って掛かったり、弟分に八つ当たりしたり、白蘭の雇い主に罵声を浴びせたりするのはなぜだ。僕にはそれが理解できない。高野吾郎は白蘭をどう思い、彼女の生き方と死に方の中に、自分の何を重ねあわせているのか。この映画の中で、吾郎は白蘭とただすれ違うだけです。彼にとって、彼女は赤の他人。赤の他人のために涙を流す人間なんて、この世の中にいないんだよ。他人の死に泣くには、そこに何らかの関わり合いを見つける必要がある。でもこの映画は、それを描きそびれている。結果として、吾郎の涙は白々しい空涙にしかならず、僕をいらいらさせるのです。


ホームページ
ホームページへ