ウェルカム・トゥ・サラエボ

1998/05/19 日本ヘラルド映画試写室
戦火のサラエボから子供たちを救おうとした人たちの物語。
マイケル・ウィンターボトムの最新作。by K. Hattori


 『バタフライ・キス』『GO NOW』『日陰のふたり』のマイケル・ウィンターボトム監督最新作。戦火のボスニアを舞台に、外国人記者の目から見た紛争の悲惨な実体を描き出す。紛争当時に撮られたビデオやフィルムの映像を交えながら描かれる、生々しい風景。蜂の巣になった建物、道路際の死体、散発的な銃撃、常に小走りで通りを駆け抜ける人々。この臨場感と迫力は、オリバー・ストーンの『サルバドル』に近い衝撃だ。ウィンターボトム監督は1作ごとに作風を変える人だが、この映画も今までの3作とはまったく異なる映画になっている。

 世界地図で見ればすぐ隣とも思える場所で戦争が起こっているというのに、それにまったく無関心な西側のマスコミと政治家たち。サラエボで起きている流血の惨事より、王族の離婚問題の方が扱いが大きいという、ブラック・ユーモアとしか思えない現実がそこにはある。戦火の中で身寄りを失った子供たちを、危険な前線から救い出そうとしても、政治家たちの身勝手な理屈に阻まれて、思うように身動きが取れないジレンマ。ボスニアの紛争に介入しても無駄だと公言してはばからない、西側の政治家たち。現場で取材をしている記者たちは、そんな国際政治にうんざりしながら、現場から毎日レポートを送っている。「ニュース番組が娯楽だって?」「冗談じゃないぜ!」。本国の放送局がどう考えているかは知らない。でも現地の取材スタッフは、いつだって命懸けで現場を飛び回り、サラエボに世界が少しでも注意を向けてくれることを祈りながら取材を続けている。

 日本のマスコミには「民主的な話し合いですべてが解決できるはずだ」というイデオロギーがはびこっている部分がありますが、この映画に描かれているような状況の中で、「民主的」も「話し合い」も何の意味も持たない。突然銃撃してくる狙撃兵の銃弾に向かって、「人権」や「人間としての尊厳」を訴えても無駄なのです。戦争は、人間社会が築き上げてきた一切のものを、一瞬にしてぶち壊しにしてしまう。家屋や人間の命もそうだけど、地域の共同体や、人間のモラルといったものまで、根こそぎにしてしまうのです。

 ボスニア紛争そのものは、95年12月の和平協定締結で幕を閉じた。この映画はボスニアの悲劇を描いているが、それは過去のことであり、今更誰かを責めようとか、糾弾しようというものではないだろう。政治家たちに対する怒りは、最小限度にとどめられている。この映画が描こうとしているのは、戦争の中で純化されて行く「人間性」の輝きです。戦争の中で、ひとりひとりの人間は何ができるのか。それをこの映画は訴えている。

 戦争の中で、人間らしさを失わずにいる人々は必ずいる。その人間性だけが、戦火のなでの人間の希望かもしれません。映画のラストに用意されているコンサート場面が、そんな小さな希望を感じさせるではありませんか。映画の中では、戦争は終わりません。映画のハッピーエンドは和平協定ではなく、人々の心の中にあるのです。

(原題:WELCOME TO SARAJEVO)


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