ゴダールのリア王

1998/05/20 TCC試写室
シェイクスピアの「リア王」をゴダールが自由奔放に映画化。
申し訳ないけど、寝てしまいました。by K. Hattori


 わずか1時間半の映画なのに、我慢できずにすっかり寝てしまいました。相変わらず風邪気味で薬を飲んでいることもあるし、昼食後で一番眠い時間帯だったということもあるけれど、それ以上に、この映画は眠くなるような作りになっている。原作はシェイクスピアの「リア王」だが、映画はそこから父親と娘という関係だけを抜き出し、幾つかのバリエーションとして観客に提示する。

 最初に登場するのは、当初この映画の脚本を担当するはずだったノーマン・メイラーと、その娘ケイト。彼らは早々に退場してしまうが、その後に登場するのは、マフィアの大物ボス、ドン・レアーロことバージェス・メレディスと、その娘コーディリア役のモリー・リングウォルド。現代版「リア王」を書こうと彼らを取材するのは、劇作家シェイクスピアの末裔であるウィリアム・シェイクスピア5世。映画にはゴダール本人がブラギー教授という怪人物を演じ、その助手役がレオス・カラックス、その恋人役がジュリー・デルピー。最後には編集者の役でウディ・アレンまで登場するという、かなり豪華な顔ぶれの映画です。

 この映画は、シェイクスピアをテキストにして、それをゴダール流に解釈してみせているのでしょう。特に物語りというようなものはなく、短いメッセージやイメージが繰り返し画面に現れては消えて行くだけ。この映画に一番近いのは、アル・パチーノの『リチャードを探して』かな。たぶんパチーノは、この『ゴダールのリア王』を参考にしている部分があると思う。映画の中で役を演じている部分と客観的なコメンテーターとして作中に口をはさむ部分との切り替えなど、『ゴダールのリア王』と『リチャードを探して』の共通項はずいぶんたくさんあると思う。ただ、僕は『リチャードを探して』は面白く観られたけど、『ゴダールのリア王』は駄目でした。寝ちゃったことも大きいけど、それ以上に、この映画が一体全体何を描こうとしているのか、それがまったく読み取れなかった。なんなの、これは?

 この映画は、シェイクスピアの「リア王」をテキストにして、そこから自由にイメージを飛躍させた映画です。描かれているのは、イメージの断片。物語に見える緩やかなストーリーは要所にはさみ込まれる字幕タイトルで分断され、全体を通す大きな物語には育たない。人物相互の関係も偶発的で、人物同士がからんで物語をふくらましては行かないのです。これは当然、ゴダールが意図した手法だとは思うのですが、これを「面白いか」と問われれば、僕は「面白くない」と答える。

 既に日本でもビデオで発売されている作品ですが、劇場では未公開だった作品です。これは製作したキャノン・グループが倒産して、権利問題が不確定だったということ以上に、やはり内容が興行面で弱いということが大きいと思う。今回は劇場が三百人劇場だし、どれだけの人が観に行くんだろうか……。まぁ、ゴダールの映画を好きな人が観に行って、それで終わりでしょうけど。

(原題:KING LEAR)


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