血を吸うカメラ

1998/08/20 ユニジャパン試写室
究極の恐怖を記録することにとりつかれた青年の悲劇。
1960年のマイケル・パウエル監督作品。by K. Hattori


 『赤い靴』や『ホフマン物語』のマイケル・パウエル監督が、1960年に撮ったサイコ・スリラー。公開当時は客がまったく入らず、パウエル監督はこの後しばらく冷や飯を食わされることになる。製作年はヒッチコックの『サイコ』と同じなので、企画自体はほぼ同時進行だったのではないだろうか。『サイコ』同様、少年期のトラウマが犯罪の原因にされているが、これが当時の流行だったのだろうか。『サイコ』が「殺される側の恐怖」を描いていたのに対し、『血を吸うカメラ』では殺す側の心理的葛藤が中心になっている。公開当事は観客にそっぽを向かれた映画であるにも関わらず、この映画は現在カルトムービーになっているそうです。

 映画は街娼がホテルの部屋で殺される場面から始まります。犯人の男は、犯行の一部始終を小型カメラで記録していた。翌日、犯行現場に警察と野次馬が群がっている様子を、熱心に撮影しているひとりの青年がいた。彼の名はマーク・ルイス。彼は映画撮影所で撮影助手として働くかたわら、ヌード写真のカメラマンをしている。そして彼こそ、娼婦殺害事件の犯人なのだ……。

 犯人の撮影したフィルムを模した、一人称のカメラワークが印象的な映画です。こうした表現は、スピルバーグが『ジョーズ』で見せた鮫の視点を先取りしたものかもしれません。殺しの瞬間や血まみれの死体は登場しませんが、これは当時の倫理コードに配慮してのものでしょう。このあたりは、表現規制そのものを表現の内部に取り入れてしまったヒッチコックに比べると、普通の映画と言えます。カメラを介した一人称描写は、今や普通の表現になってしまったので、今観たとしても特別斬新な印象派受けません。むしろ撮影ステージの二重に上がった主人公のポケットから、鉛筆がこぼれ落ちるシーンのほうがドキリとします。これはクロネンバーグが『デッドゾーン』で使ったのと同じテクニックです。

 幼児期に親から受けた虐待が猟奇犯罪者を生み出すという動機付けは、『サイコ』でも描かれていたもの。ただし映画の最後に刑事たちが長々と台詞で犯人の心理を分析して見せる『サイコ』に比べると、『血を吸うカメラ』の犯人描写はかなりスマートです。彼の父親が息子を実験台にして心理学の実験を行っていたことが、なぜ息子を連続殺人鬼にしてしまったのか。その理由は、結局のところよくわからない。しかし、顔に醜い傷を持つ女に対する偏愛や、自分の殺した女たちの断末魔の表情を記録したフィルムを飽きることなく眺めていること、初めて言葉を交わした女性にいきなり悪趣味な実験のフィルムを見せてしまう描写などから、主人公の心の中にぽっかりと開いた空洞が見えてくるようでした。

 犯人に殺される若い女優が、音楽に合わせてステージで踊るシーンがありますが、演じているのは『赤い靴』や『ホフマン物語』でヒロインを演じたモイラ・シアラー。どうりでダンスが上手いはずです。このシーンだけは、まるでミュージカル映画のようでした。

(原題:Peeping Tom)


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