時雨の記

1998/08/31 東映第1試写室
吉永小百合と渡哲也の32年ぶりの共演作。原作は中里恒子。
渡哲也がスターの貫禄を見せている。by K. Hattori


 吉永小百合と渡哲也が『愛と死の記録』以来、30年ぶりにスクリーンで共演することが話題になった、大人のラブストーリー。原作は中里恒子の同名小説。脚本は伊藤亮二と澤井信一郎で、監督も澤井信一郎です。妻子ある50代の男性が、美しい未亡人と熱烈な恋に落ち、仕事も家庭も捨てて、彼女と一緒になろうとする「不倫物」です。東映としては『失楽園』の観客層を、もう一度映画館に引っ張ってこようとしたのかもしれませんが、映画自体にそこまでの力があるかはやや疑問。渡哲也の素晴らしい存在感と演技、時折見える吉永小百合のはっとする美しさ、東映流の丁寧なセットの作りこみ、そしてまだ残っている日本の美しい風景をきちんとロケしていることなど、観るべき点は多いのです。でも「これが絶対にすごいぞ!」という、絶対的なアピールポイントが見つかりにくい映画だと思いました。

 映画の時代背景は、昭和天皇の崩御をはさんだ数ヶ月です。原作は昭和56年に発表されているので、映画は昭和から平成にかけての時代に、わざわざ物語の場所を移したことになる。時代が大きく移り変わって行く分岐点を、映画の中の登場人物と映画を観ている観客で共有しておきたいという趣旨はわかりますが、主人公たちの行動自体は、あまり「時代背景」と関係がない。結局こうして「10年前」を強調した結果、映画の中身自体が古めかしく見えてしまうように思います。なぜ10年前でなければならないのでしょう。原作通りに作ると15年以上昔の話になるから、それでは現代の観客にとって遠すぎる話だと思ったのでしょうか。あるいは渡哲也が演じている主人公が建設会社の役員という設定だったため、バブル崩壊後のゼネコンでは印象が悪いと思ったのでしょうか。なんにせよ、この物語がなぜ平成10年の現代を舞台に出来なかったのか、少し疑問に感じます。

 基本的に主演のふたりの魅力で見せて行くタイプの映画ですが、ヒロインの堀川多江を演じた吉永小百合には、例によってほとんど魅力らしい魅力が感じられなかった。唯一ドキリとしたのは、雨の時雨亭で渡哲也に向かって激しい愛を告白する場面ぐらい。あとはただ、ボンヤリとした、もしくはドンヨリとした、芝居以下の芝居があるだけです。こうしたうっとうしさは、例えば『夢千代日記』なら逆にサマになるのでしょうが、この映画ではただの鈍感な女に見えるだけでした。

 一方の渡哲也は、特に前半が素晴らしい。20年ぶりに出会った女との恋に、命懸けでぶつかって行く男の純情ぶりが、時に滑稽にも見え、時には胸を打ちます。年を取っても、こんなに純粋に人を愛することが出来るものなのだろうか? 打算や欲得、家族や社会のしがらみを振り切って、愛する人とのつかの間の生活の中だけに没入して行けるものなのだろうか? こうした疑問は、特に映画の後半で強く感じられるのですが、少なくとも渡哲也の登場シーンでは、そんな理屈は吹き飛んでしまう。これがスターの持つ風格というものでしょうか。


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