1998/11/06 シネセゾン渋谷
東京国際映画祭/ニッポン・シネマ・クラシック
シェイクスピアの「リア王」を黒澤流にアレンジした戦国絵巻。
合戦シーンの様式美には慄然とする。by K. Hattori


 ずっと以前にビデオで1回だけ見たことのある映画。昔のビデオだという理由もあるのでしょうが、ビデオで『乱』を見ると、鮮やかな色彩がすべてにじんで、全体にボンヤリした絵になってしまいます。その時以来、「これは劇場で観るしかない!」と思っていた次第。ところがこの映画、名画座でもなかなか上映される機会がなく、あっても観られなかったりで、今まで僕には縁がなかった。今回、東京国際映画祭の黒澤監督追悼特集が行われると知ったとき、一番観たかったのはこの作品と『デルス・ウザーラ』だったのです。

 『乱』はシェイクスピアの「リア王」を日本の戦国時代に翻案したもので、近隣の大名を抑えて一地方の覇者となった一文字秀虎が、自分の息子たちに国を譲って隠居するところから物語が始まる。しかし父子兄弟の確執から、権勢を誇った秀虎は発狂し、兄弟は全員殺され、一文字家は滅んでしまう。すべてが終わった後、正気に返った秀虎は息子の死体にすがってもだえ苦しみながら死ぬ。この映画のトーンや内容は、同じくシェイクスピアが原作の黒澤映画『蜘蛛巣城』を思い出させる。一文字秀虎は、老いるまで生き延びた鷲津武時であり、一文字家を滅ぼす楓の方は、武時をそそのかして破滅に追い込む浅茅の末裔だ。しかし『蜘蛛巣城』が「マクベス」そのものだったのに対し、『乱』は「リア王」をもとにしながらも、より独創的な展開を見せている。

 一文字秀虎の失敗は、いったいどこにあったのだろうか。彼の失敗は「生涯現役」を貫かず、息子たちに家督相続してしまったことだろうか。彼は早めの引退をしたことで、息子たちの骨肉の争いに巻き込まれ、自国の滅亡を目の当たりにする地獄を味わった。しかし、仮に秀虎が死ぬまで家督を譲らなかったとしても、その死後、国は滅んでいただろう。遅かれ早かれ、終わりの時は来る。一代で築いた繁栄は、一代で滅んでしまう。この映画は、秀虎一個人の悲劇を描いているのではない。人間は否応なしに年老いて、自分の築いた財産を失う……。財産とは金や不動産に限定されることではない。それまで自分のそばにあった家族、仲間たち、社会的地位、名声、人間としての尊厳までが、もろくも消えてなくなる。それこそが、この映画のテーマなのだと思う。

 この映画最大の特徴は、極度に研ぎ澄まされたビジュアル・イメージの数々だろう。役者の芝居や衣装に能の様式を大々的に取り入れ、映画全体を黒澤流の様式美で統一している。黒澤はデビュー直後の『虎の尾を踏む男たち』以来、能との関わりが深い。この映画はその集大成だ。映画最大のクライマックスは、秀虎が立てこもる三の城の落城シーンだろう。今回はじめて気づいたことだが、この場面は『プライベート・ライアン』冒頭にあるオマハ・ビーチの戦闘シーンと、非常によく似ているのだ。切り落とされた自分の片腕を持ったままうずくまる兵士、戦闘シーンを無音で表現するところ、あふれる血糊が川のように流れる場面など、まるで同じだ。


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