YYK論争
永遠の“誤解”

1998/11/11 東映第2試写室
映画製作の内幕を赤裸々に描いた会話には身につまされる。
タイトルは堅苦しいが、内容は面白いよ。by K. Hattori


 試写に行く前、タイトルを見ても資料を読んでも、何だかよくわからない映画だと思った。タイトルからすると、これは何やら「論争」を主題にしたディスカッション・ドラマらしい。監督は若松プロ出身の寡作作家・沖島勲で、前作は'95年の成人映画『したくて、したくて、たまらない、女』だという。資料を一読し、「何やら理屈っぽい映画を観せられそうだ」という嫌な予感がしたのだが、映画はすごく面白いぞ。これはタイトルと資料(と言ってもチラシだけだけど)がよくない。

 映画の舞台は、東京郊外にある倉庫を改造した、即席の映画スタジオ。そこでは『YKK論争/永遠の“誤解”』というタイトルの映画が、今まさに撮影されつつある。この映画は撮影期間3日、総製作費が300万円という、破格の超低予算映画。監督は「これが映画の現実とは情けない」と愚痴をこぼすが、スタッフやキャストのやる気は十分だ。監督も数々の制約の中で、何とかいい映画を撮ろうとがんばっている。撮影が進められている『YKK論争』は、源義経と源頼朝の兄弟と、彼らの父を殺した平清盛、義経の母・常磐御前が、800年の時を経て一堂に集まり、それぞれの人生を語り合うという異色時代劇。ふたつの「Y」は義経と頼朝、「K」は清盛の頭文字だ。常磐御前の「T」は、なぜかない……。

 映画は劇中で撮影されている映画と、撮影現場のドタバタを行き来しながらクランクアップに向けて進んで行く。撮影現場での他愛のないおしゃべり、待機中の役者たちの雑談などからは、現在の日本映画が抱えているさまざまな問題が浮かび上がる。少しでも現在の日本映画界を知っている人なら、身につまされるところが多いはずだ。製作費300万円は論外としても、似たような話題はどこでも見聞きするものばかりだ。映画を作る現状は確かに厳しい。しかしその厳しさの中で、映画を作る人たちは必死になって映画を作り続けている。

 この映画は、「弁解」と「言い訳」をテーマにした映画と言えるかもしれない。劇中劇『YKK論争』の登場人物たちは、それぞれの失敗や人間的な欠点について、ある時は恥じ、ある時は言い繕い、ある時は開き直って相手を責める。「あの時は仕方なかった」「あの場合は、ああするしかなかった」という言い訳は、しかし各個人が作り出した物語に過ぎないということが、映画のラストでは明らかになる。人間はそれぞれが、個別の物語の中で生きている。それは、劇中劇の中に登場する歴史上の人物だけではない。映画を製作しているスタッフや俳優たちも、やはりそれぞれの物語を作っているのだ。

 映画の中で待機中の役者が、「司馬遼太郎は『明治までの日本人は偉かった』と言っているが、それは間違いだ。明治以前の日本人も、今の我々と同じように馬鹿だったのだ、と考える必要がある」と述べている。この映画はまさにそうした方法で、歴史の中の人物と、現代を生きる我々自身を相対化してしまう。だが、そこには人間に対する「愛情」があるように思えるのだ。


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