フラミンゴの季節

1999/01/07 日本ヘラルド映画試写室
パタゴニアの小さな村を訪れた技師が、村の秘密を暴いてゆく。
最後まで持続する適度な緊張感が心地よい。by K. Hattori


 南アメリカの南端に位置するパタゴニア地方。夏の訪れを告げるフラミンゴの飛来と共に、荒涼とした砂漠の中の小さな村サン=ロレンソに、若い技師がやってくる。造船所で作った船を内陸の湖に輸送するため、村に道路を通す計画が進められているのだ。陸の孤島だった村に道路が通れば、人の往来も増えるし、休眠状態の鉱山も採掘を再開できる。好景気の予感に、村はにわかに浮き足立つ。だが技師の行動は、村の有力者たちにとって、必ずしも望ましい方向には進んでいかなかった。

 閉鎖的な小さな村が、ひとりの部外者の闖入によって、それまで隠してきた秘密の側面を見せ始める物語。土地の所有者であるインディオと、村の権力者である一握りの特権階級との対立。入り乱れた人間関係。むき出しにされる欲望。秘められた陰謀。静かに沈殿していた村の暗部が、技師の行動で少しずつ表面に浮かび上がってくるのだ。保守的な村の中に外部から人が来て、少しずつ村の中が変わっていくというドラマの構造自体は、とりたてて目新しいものではない。少し映画を観ている人なら、同じような話を過去に何度も見させられているはずだ。ほのぼの系なら『イル・ポスティーノ』がそうだし、シリアス系なら『パブリック・アクセス』もこの部類。つまり、アイデア自体は使い古されたものと言える。

 ところがこの『フラミンゴの季節』という映画は、外部からの闖入者である技師と、村の人々との距離感がじつに微妙で、それがこの映画特有のムードを作り出している。技師は第三者的な傍観者でもなく、かといって内部に留まって共同体の一員になるわけでもない。『フラミンゴの季節』という邦題が、まさにこの男の立場を端的に表している。彼は渡り鳥のように土地から土地へと移動を繰り返す旅人であり、季節が終わればまた立ち去って行く運命の人なのだ。技師と親しくなる村の女は、そんな彼の素性を彼以上に知りつくしている。

 映画は序盤から、最終的な破滅の予感を漂わせながら進行する。友人の妻と寝る村長、13歳のメイドに手をつける村の実力者、行方不明になったまま帰らないインディオ、秩序を維持するために村人たちを監視する老婆と神父、鉱山の利権、発見された金鉱石。これらのどの要素から、物語が一気に火を噴いてもおかしくない状態がジリジリと維持される緊張感。いわば火にかけられた鍋が、今にもグラグラと煮えたぎる寸前の状態が、ずっと続いているようなものだ。映画を観る側の期待は、いやが上にも高まって行く。そして、すべては終わる。

 オープニングとエンディングが、きれいなシンメトリーになった脚本。技師によって村に連れ戻された迷える子羊は、姿を変えて、再び技師によって村の外へと逃れて行く。村に残ることを決めた女は、かつての自分を思わせる娘を、男に託して送り出す。最後までピンと張りつめた緊張感が心地よい映画です。監督・脚本のシーロ・カペラッリは、この映画で「シネマ100・サンダンス国際賞」のヨーロッパ部門を受賞しています。

(原題:SIN QUERER)


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