ミモザ館

1999/01/19 フィルムセンター
下宿屋の女主人が我が子同然に育てた青年に恋をする。
'34年製作のフランス映画。往年の名作。by K. Hattori


 1934年製作のフランス映画。監督はジャック・フェデー。脚本はフェデーとシャルル・スパークの共作。コート・ダジュールで下宿屋「ミモザ館」を経営している女主人公が、かつて我が子のように育てた青年がパリで自堕落な生活を送っているのを知って自分のもとに呼び寄せる。母親のようにあれこれ世話を焼いているうちに、彼女は青年を「男性」として愛し始める……という物語。これも僕の言う「往年の名画」というやつで、現代の観客が観てもあまり面白いと思わないであろう作品だ。主人公が青年に恋心を感じることに、当時は不道徳な匂いがしたのかもしれない。あるいは、中年の女がずっと年下の男に惹かれて行く様子がショッキングだったのか。でも、今はなんでもありだから、それだけでは誰も驚いてくれない。主人公と青年の恋が「あってはならないこと」「あるはずのないこと」だとは最初から誰も思わないのです。その点で、この映画が作られた時代と今とは、だいぶ違うんじゃないだろうか。

 この映画は一応「養母」と「養子」の関係を描いているわけだが、実際に作り手が描こうとしたのは、どの家庭にもある母親と息子の関係だろう。『ミモザ館』に出てくるエピソードの多くは、血のつながった母と息子の間でも見られるものだと思う。しかし実母と実子の間で『ミモザ館』を作ると、近親相姦のタブーに触れてしまうため、刺激が強すぎて観客が受け入れてくれない。そこで多少回りくどく、養母と養子の関係にしてあるのだろう。観客はこの映画を観て、自分たちとは別の場所で展開されている特殊な話として受け入れつつ、フランソワーズ・ロゼーが演じる養母の愛情表現を、自分たちが見知っている身近なものとして感じることができる。

 現代の映画作家が『ミモザ館』的な母子関係を描こうとしても、おそらくは同じように「血のつながらない母子」という関係にするだろう。問題は母親の感情のどこに、一線を越えられないカセをはめるかなのだ。いやそもそも、母親の子供への愛情は、恋愛感情とどこが違うのかを考える必要がある。『ミモザ館』では、パリにいる息子の恋人が現れて、ひとりの青年をめぐる三角関係になる。この映画では母親を下宿屋の女主人、若い恋人を映画女優にしているが、今ならもっと近い関係にして、ふたりの女性が「母親」と「恋人」でどう違うのかを、じっくりと対比させた方が面白いかもしれない。共通点が多ければ多いほど、ふたつの対象の相違点が目立つものです。この映画では、ふたりが対照的すぎる。年齢も違う、性格も違う、仕事も違う、生き方が違う。こうした「違い」の中に、感情が埋没してしまうのです。

 もっともこうした指摘ができるのは、映画が作られてから65年もたっているからです。当時の観客には、これでもよかったんでしょう。個々のキャラクターの造形などは今の視点で見てもよくできているし、各シーンの演出も大したものです。最後のカジノの場面なんて、思わずウフフと笑ってしまいました。

(原題:Pension Mimosas)


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