アフタヌーン・ショウ

1999/02/02 シネカノン試写室
たまたま公園に集まった不運な男女の壮絶な殺し合い。
登場人物の誰にも親しめない映画。by K. Hattori


 別々の目的を持って、たまたま同じ公園に集まってしまった人々が、どうい うわけか壮絶な殺し合いを演じる羽目になる物語。製作・監督・脚本・撮影・編集・出演を兼ねる前島誠二郎は、自主製作の短編映画を何本か撮ったことのある人らしいが、本作が一般劇場映画デビュー作となる。上映時間は1時間21分。映画としてはそれほど長いものではないが、観ている側の体感時間としては、この時間が2倍にも3倍にも感じられる。正直言って、僕はこの映画を観ながら「早く終わらないかな」と思ってました。すごく退屈な作品でした。

 超低予算の映画で、画面からは貧乏くささがプンプン漂ってきます。俳優の芝居も、決して上手いとは言えない。しかしそんなことは、この手の映画を観る場合に減点対象とはなりません。劣悪な条件で作られているのは、最初からわかりきったことなんですから、観る側もある程度は製作側の事情を斟酌してやらなければならない。僕が退屈に感じた理由は、映画の脚本や構成、テーマの持ち方などにある。この映画では、規模の割には登場人物が多いのです。必然的に各登場人物のエピソードが細切れで薄っぺらなものになり、人物そのものまでペラペラの紙細工のようになっている。登場人物は全員が気狂いで、ある者は誇大妄想、別の者は被害妄想、さらに別の者は躁鬱病です。この映画の中には、観客が共感できる人物がひとりも登場しない。すべてが極端に歪んだパーソナリティーの持ち主で、行動は支離滅裂です。

 登場人物の行動は最初から常軌を逸脱しているのだから、そこでどんなに突飛な事件が起こっても何も不思議ではない。この映画では人がじつに簡単に死んで行きますが、そこには何の衝撃もありません。この映画の中では、死が恐怖の対象にならないばかりか、笑いの対象にすらなることがない。人は画面の中に出てきて、ただ死ぬ。それも、ひどくあっけなく。人間の死に何の意味性も持ち得ない映画は、人間同士の過激な暴力にも無頓着でいられる。セックスもそうだ。すべては無意味。すべてに不感症。画面からは、吹き出す血糊、断末魔の悲鳴が次々とあふれ出すが、それらは道路に吐かれたタンを見つけたときのような、軽い嫌悪感を与えるだけだ。

 製作側はこの映画を、おそらくコメディのつもりで作っているのでしょう。しかし、この映画では笑えない。ニヤリとも、ニコともできない。唯一の例外は爆弾男が同居の恋人にぶん殴られる場面だが、この映画の中で唯一普通に見えるのがこの恋人だったことを考えると、この笑いには多少の意味がある。僕が思うに、この映画は登場人物たちの中に、もっと「普通の人」を何人か放り込むべきだった。普通の人を媒介にして、観客がすべての「異常さ」を相対化することができれば、この映画はもっともっと面白いものに仕上がったに違いない。

 芝居は全員ヘタなので個別に指摘しても意味はないのだが、爆弾男の演技はもう少し何とかならなかったのだろうか。これじゃ下手くそな小劇場の芝居です。


ホームページ
ホームページへ