ゼノ
かぎりなき愛に

1999/02/23 日本ヘラルド映画試写室
生涯を伝道と奉仕に捧げた修道士ゼノさんの実話をアニメ映画化。
脚本が一本調子でまったくドラマになってない。by K. Hattori


 昭和5年に来日して昭和57年に亡くなるまで、日本で宣教と奉仕に一生を捧げたポーランド人修道士ゼノ・ゼブロフスキー、通称「ゼノさん」を主人公にしたアニメーション映画。製作配給は「ゼノさんの映画をつくる会」で、製作費のほとんどは2千名を越える善意の募金で賄われたという。その心がけは立派。しかしどんなに心がけが立派でも、立派な映画ができるとは限らない。僕はこの映画のできにすごく不満がある。もっと丁寧に取材して脚本を作れば、同じ規模でももっと面白い映画が作れたと思うんだけどな……。

 そもそも僕は、今の時代にこのような映画が作られた理由がわからない。物語は戦時中から始まり、長崎の原爆投下と戦災孤児や焼け出された人たちの困窮ぶりを描いて、その中で地道な奉仕活動を続けるゼノさんを追って行く。でもこうしたエピソードが、ちっとも現代につながってこないのです。「戦中戦後はいろいろと大変でしたよね」という話で終わってしまう。「当時は日本が貧しくて食べるに事欠いてました」という、年寄りの昔話で終わってしまうのです。これでは貧しい人々に手を差し伸べたゼノさんの活動は、日本が経済的な発展を遂げて豊かになったことで、必要なくなってしまったように見える。でもこの映画の中でもゼノさんが言っています。「私が与えているのは食べ物や着るものではありません。私はマリア様の愛を子供たちに教えてあげたい。子供たちにはもっともっと愛が必要なのです」と。ゼノさんのこの言葉を核にして物語を作れば、映画は現代にも通じるものになったと思う。物がどんなに豊かになっても、子供たちが愛に飢えているのは同じだからです。

 この映画の中では、ゼノさんの業績ばかりが描かれていて、彼の人間としての葛藤や弱さはまったく欠落しています。これでは映画の中にドラマが生まれません。ただひたすら、「ゼノさんは立派でした」と言うばかりでは飽きてしまう。どうせならゼノさんの生い立ちや若い日の修業時代、来日直後のエピソードを混ぜながら、人間としての弱さや迷いを持つ人物として描いてほしかった。若い日や来日直後のエピソードを描けば、そこには当然アウシュビッツで餓死刑を受けたコルベ神父も登場することになります。この映画の製作者たちは以前にコルベ神父の映画を作っているので、今回はそのエピソードを割愛してしまったのかもしれません。しかし、これはあまりにもったいない。同じ志を持って日本に渡ったコルベ神父とゼノさんがやがて別々の道を歩み、ひとりはアウシュビッツで死に、もうひとりは長崎の原爆投下から孤児たちのために働き始める物語にした方が、ドラマとしてのふくらみが出てきたように思うけどね。

 絵が安っぽいのは低予算だから仕方ないとしても、演出がずさんで見ていられません。時間経過の処理が、あまりにもお粗末なのです。低予算でもカット割りぐらいはできるはず。カットを割って、時間を省略したり延ばしたりするのが映画でしょうに……。


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