奇跡の丘

1999/03/04 映画美学校試写室
パゾリーニが新約聖書の「マタイによる福音書」を忠実に映像化。
信仰という色眼鏡なしに描かれるイエス像は新鮮。by K. Hattori


 新約聖書の「マタイによる福音書(マタイ伝)」を、パゾリーニ監督が完全映像化。少女マリアの妊娠からはじまる物語は、我々が普段知っている「イエス伝」とはかなり異質。原作のマタイ伝をそのまま映像化しているだけなのだが、例えばここにはイエス伝映画の定番になりそうな、聖母マリアへの受胎告知がない、イエスの馬小屋での誕生も描かれない、誕生したイエスを訪問する羊飼いも登場しない。これらはすべて「ルカによる福音書(ルカ伝)」にある記述なのです。

 僕は新約聖書を1度通読したことがあるとはいえ、どの福音書にどんなエピソードが入っているかという細部までは覚えていないので、映画を観ていて「あれ、あの話がないぞ」と思うことが何度もあった。でも、家に帰ってから聖書を開くと、これがまったく聖書の記述に沿った映像化であることに驚かされました。新約聖書でイエスの誕生物語を描いているのはマタイとルカだけですが、文学的な修辞の多いルカ伝に比べると、マタイははるかに簡潔です。この簡潔さが、映画になったときに力を発揮する。例えば映画の冒頭は、妊婦マリアとその夫ヨセフ(この時点ではまだ婚約者)の表情だけで、処女の妊娠というただならぬ事件を語ってしまうのです。

 パゾリーニが無神論者だったせいかもしれませんが、この映画に登場するイエスやその弟子たちは、神々しさや荘厳さを感じさせる、人間離れした聖人の集まりとしては描かれていません。聖母マリアやヨセフ、東方の博士たち、ヘロデ王、洗礼者ヨハネ、ローマの兵士、ポンテオ・ピラトなど、聖書でおなじみの登場人物たちは、どれも近寄れば埃と汗と垢の匂いがしてきそうな生々しさで描かれている。キリスト教を信ずるものにとって、イエスは全人類を救う救世主ですから、その誕生は神秘的で、生涯は栄光に包まれたものでなければならない。でもそうした信仰から離れてマタイ伝を読めば、これはローマ時代のパレスチナに起きたちっぽけな事件にすぎないのです。僕はキリスト教徒ではありませんが、歴史の中で形作られてきた「ステレオタイプなイエス像」を通して、マタイ伝を読んでいたような気がします。『奇跡の丘』は、イエスをそうした神秘性から解放し、丸裸にしてしまう。イエスは生まれ、生き、死んで、復活する。その事件はユダヤというローマ属領で起きた、奇妙ではあるが小さな事件にすぎないのです。

 出演者は全員が演技経験のないアマチュアだそうで、映画の後半に登場する年老いた聖母マリアは、パゾリーニの実母が演じている。同性愛者として教職を負われ、共産党を除名された経験を持つパゾリーニは、迫害されるイエスの中に、自分自身を投影しているのです。この映画の中のイエスは、全人類を罪から救い出すため天からつかわされた神の子ではなく、誘惑の多いこの世の中を、自らが信じるままに生き抜いた強靱な個性の持ち主として描かれる。エピソードがただ羅列されている物語は退屈ですが、聖書読者には意外な発見もあります。

(原題:IL VANGELO SECONDO MATTEO)


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