お国と五平

1999/06/29 東宝第2試写室
谷崎潤一郎の原作を成瀬巳喜男が映画化した昭和27年作品。
山村聰が物語をぶち壊していくところが最高。by K. Hattori


 昭和27年に製作された成瀬巳喜男監督の時代劇。夫をかつての許婚に殺され仇討ちの旅に出たお国と、彼女に寄り添う従者の五平。物語はふたりが見事に本懐を遂げるまでを描いているのだが……。原作は谷崎潤一郎。女主人に対する従者の献身的な愛という題材が、いかにも『春琴抄』の谷崎潤一郎です。決して報われることのない恋慕を胸に抱きながら、愛する女性に寄り添い生きることに無上の喜びを見いだすという、男性側のやや倒錯した恋愛感情がエロチック。これを男の幻想と言ってしまえばそれまでですが、似たような感情は男なら誰でも持つことがあるんじゃないだろうか。

 お国を演じているのは木暮実千代、五平を演じているのは大友友右衛門。木暮実千代は『酔いどれ天使』のように男を翻弄する悪女役が多いのだが、この映画では、封建の世の中で武家の掟に縛られて生きるか弱い女性を演じている。幼い頃からの許婚がありながら、父のすすめで別の男と見合いして結婚し、元許婚に夫を殺されると仇討ちのために故郷を出て行く。そこにはまったく、彼女自身の主体性というものがない。そんな彼女の姿が最後の最後に逆転するのがドラマとしてのクライマックスだが、成瀬巳喜男はあまりそうした部分に面白さを感じなかったようで、終盤はやけにあっさりと流れてしまうのが難点。途中までは面白かったのに、最後は中途半端で煮え切らない映画になってしまったと思う。

 煮え切らない映画になった原因のひとつに、敵役で登場する山村聰の芝居がある。封建時代の作法やしきたりでがんじがらめになっている世界を描いた時代劇なのに、山村聰演じる男だけはそれを無視して現代劇のノリなのだ。「私は死にたくない」「命が惜しい」「私は逃げるから、ふたりは勝手に幸せになってください」などと、自分勝手なことばかり言うこの男の存在感には、小市民的なリアリズムがある。虚構によってがっちり汲み上げられた男と女の情念の世界に、このリアリズムが足払いをかけてしまうのです。山村聰が真顔で自分の理屈を述べると、そちらの方に分があるように感じてしまう。ここでお国と五平の生き方は真っ向から否定され、むしろ滑稽なものに思えてしまうのです。

 成瀬巳喜男監督は『お国と五平』の物語を描きながら、心情的には山村聰演じる男に感情移入していたのではないだろうか。別れた女の夫を闇討ちにかけて殺し、仇と追われながらも逆に女を追っていく男。それでいて女に殺される覚悟など更々なく、優しい言葉をかけて命乞いをする男。何とも女々しいその姿の側に、リアルな人間の本音を見たのではないだろうか。そもそもが、木暮・大谷・山村と並ぶと、山村聰が一番「成瀬的な俳優」だもんね。五平のようなやせ我慢は、成瀬の世界には似合わないのかもしれない。木暮実千代の感情的な爆発が山村聰との芝居の中で生きてこないのが残念だが、これは話の組立がそうなっているのだから仕方がない。ここをいじると『羅生門』の京マチ子になるし……。


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