次男坊鴉

1999/07/22 徳間ホール
市川雷蔵が昭和30年に主演した初めての股旅映画。
やくざ姿は少し迫力不足だが面白い。by K. Hattori


 昭和30年に製作された、市川雷蔵主演の股旅映画。親に感動された旗本の次男坊がやくざになるが、兄の急死で急遽呼び戻されて家を継ぐことになる。だがその間に、彼が世話になっていたやくざの親分が急死。彼と恋仲だった娘も病に倒れる。これを知った主人公は、1日だけやくざに戻って大暴れ。悪党たちを斬って斬って斬りまくる。最後は後見人の叔父も、主人公と娘の仲を認めてハッピーエンドになるという物語。雷蔵にとってはこれが初の股旅物だそうで、いなせなやくざ姿と、旗本に戻ってからの凛々しい若侍ぶり、立ち回りのスピード感、男と女の情念のようなものが、程良くブレンドされた良質の娯楽時代劇になっている。

 特に名作や傑作ということでもないのだろうが、この程度の映画が観られれば僕は大満足。「身分違いの恋」というテーマはいかにも古風だが、周囲の妨害で若者たちの恋に邪魔が入ったり、本人たちの知らぬところで恋路を邪魔しようとする連中がいるのは昔も今も変わらないだろう。いかにも古風な筋立ての「いかにも」な部分にさえ目をつぶれば、これは今でも十分に通用する話だと思う。ただし、芝居には一部大げさすぎる場面もある。例えば主人公を旗本の家に送り返した後、恋人がヨロヨロと倒れて、部屋に残された彼の着物を抱きしめるシーンなど、いかにも段取り芝居で「クサイなぁ」と思ってしまうのだ。こうした場面は、もうちょっとしっとり情感豊かに演出すれば名場面だ。主人公と娘が雪の中で再会する場面はまるで『沓掛時次郎』だが、ここでも主人公と娘が抱き合う芝居が薄っぺらすぎる。しかしここでは、そんなふたりを少し遠くから見てくるりと背を向ける子分の男を配することで、シーンに厚みが出ているのだ。これが芝居の演出というものだろう。

 この映画が作られた昭和30年は、戦後民主主義の時代だ。封建的な身分違いの恋を乗り越える主人公たちの姿に、観客たちは心から拍手喝采したのだろう。さらに言えば、この時代にはまだ戦争の記憶が生々しく残っていた。だから日光普請奉行の重役を担って娘と別れざるを得なくなった主人公は、そのまま出生して行く兵士の姿にダブるのだ。離ればなれになった恋人と音信不通になっても信じて待ち続け、晴れて再開がかなった主人公たちの姿は、夫や恋人を戦場に送り出した女たちにとって、ごく身近な存在に感じられたに違いない。生活の周囲から「身分」という概念が消え去り、戦争の記憶も遠のいてしまった現代人にとって、この映画を製作当時の観客と同じ気持ちで受け止めることは難しいだろう。

 台詞や芝居がスムーズに流れていない部分があって、デビュー間もない雷蔵の若さを感じさせる。敵役の賭場に乗り込んで啖呵を切る場面は、台詞こそ次々口から飛び出してくるものの、どうにも迫力不足で、台詞の中身とのギャップで思わず笑ってしまいそうになる。雷蔵は品が良すぎて、すごんだ台詞に凄味が欠けているのだ。雷蔵も、最初から大役者だったわけではない。


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