橋の上の娘

1999/09/13 メディアボックス試写室
パトリス・ルコント監督が描く不思議なラブ・ストーリー。
ヴァネッサ・パラディがチャーミング。by K. Hattori


 『髪結いの亭主』『仕立屋の恋』のパトリス・ルコント監督が撮った新作は、ノスタルジックな匂いのする、男と女の寓話的ラブ・ストーリー。主演は『八日目』のダニエル・オートゥイユと、『ハーフ・ア・チャンス』でもルコント作品に主演していたヴァネッサ・パラディ。画面はモノクロのシネマスコープ。僕はヴァネッサ・パラディという女優にあまり魅力を感じないのですが、ルコントと組んだ『ハーフ・ア・チャンス』とこの『橋の上の娘』の彼女はなかなかチャーミングでいい。

 橋の上から川に身を投げようとする若い女。彼女の名はアデル。高校時代に男と駆け落ちして以来、次々に男を取っ替え引っ替えしながら暮らしてきた彼女は、男にも運にも見放されていた。そんな彼女に声をかけたのは、ガボールという名のナイフ投げの男。彼はナイフの標的になる若いパートナーを捜していたのだ。コンビを組んだふたりはショーの人気者になり、世界中を旅するようになる。だがアデルの男遍歴は止まらず、やがて男性問題がもとでコンビは解散してしまう……。

 一緒にいると何でもうまくいくのに、離れていると何をしてもダメなふたり。マイナスとマイナスがかけ合わさって大きなプラスに転じるように、アデルとガボールの関係もひとりひとりはマイナスもいいところ。なのに一度ふたりが手を取り合えば、どんな不可能も可能になってしまう。人間同士の不思議な作用です。

 物語の舞台は現代ですが、サーカス、ナイフ投げ、寝台列車の旅、豪華客船、モノクロ画面、ビッグバンドの演奏を使ったBGMなどの仕掛けによって、物語の時代性は薄れている。ここに出てくるのは、フェリーニの『道』や『フェリーニの道化師』を連想させる芸人たちの世界です。これが一種の異空間になって、ファンタジックな物語が成立しうる土台になっている。この映画を観て「リアリティがない」「本当の芸人の世界はこんなものじゃない」などと批判することはまったく無意味。そもそもこの映画からは、身過ぎ世過ぎのリアリティなど剥奪されているのです。そのための舞台装置が、ナイフ投げであり、イスタンブールなのです。

 ヒロインのアデルはいい男を見つけるとすぐに寝てしまう尻軽女ですが、ナイフ投げのガボールとは最後まで寝ない。ふたりの間には、セックス以上にエロティックな関係があるからです。ガボールの投げるナイフの前に身をさらし、一投ごとに生と死の境界に追いやられる究極のエロティシズム。アデルはガボールに自分の命をゆだね、ガボールはアデルの生死を支配する。どんなセックスでも味わえない究極のエクスタシーを、アデルとガボールは知っている。確かにふたりの間にセックスは存在しないが、こんなにもエロティックな関係を、プラトニック・ラブと言うのは難しい。

 ラストシーンは途中から予想できたけど、きちんと予想通りになってくれるのが嬉しいハッピーエンドだった。1時間30分の素敵な映画です。

(原題:la fille sur le pont)


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