記録映画
日独裁判官物語

1999/09/20 メディアボックス試写室
日本の司法制度の問題点を指摘するドキュメンタリー。
ドイツ礼賛に偏りすぎなのは気になる。by K. Hattori


 日本の政治制度は、多くの面でドイツを手本にしている。司法制度もまたしかり。だが第二次世界大戦で同じように敗戦国になった日本とドイツは、少なくとも司法制度に関して、戦後まったく別の道を歩きだしてしまった。この映画は日本とドイツの司法制度、特に裁判官の市民的自由を比較したドキュメンタリー映画。タイトルに『日独裁判官物語』とありながら、最初から最後までドイツの司法制度を紹介することがメインになっている点でバランスの悪さも感じるが、それもやむを得ない面がある。取材に対して常にオープンなドイツ側の対応に対し、日本はまったく取材をさせないのです。裁判所にカメラを持ち込めない、裁判の様子を撮影できない、裁判官に直接取材するのは極めて困難、裁判所の公式見解や反論も出されることがない。映画の中ではこうした日本の裁判所の閉鎖性そのものが、何よりも雄弁に日本の司法制度の後進性や問題点を語っています。

 日本では裁判官に一般市民と同じ「自由」を与えない。膨大な仕事量、数年おきの転勤、官舎での生活、市民活動への参加制限などがあり、意図的に裁判官と一般市民の間に垣根を作ろうとしているかのように見えます。裁判官は法律の専門家であり、市井の事情に精通する必要はない。情勢次第でどうとでも動く市民感情に触れるより、厳正中立な法律の守護者として働くべきである、という考えのようです。市民と法律の世界の間に一線を引き、市民は市民の世界で暮らし、裁判官は法律の世界で暮らす。それが日本の法治主義です。しかしドイツは違う。ドイツでは「法は市民のもの」という感覚が徹底しており、法律と市民的常識の双方に重きが置かれている。裁判官は市民としての自由を行使することで、より実践的で公正な、市民感情に沿った裁判を行うことができる。裁判官は意に添わぬ転勤を強制されることはなく、地域に根を下ろした活動が基本になる。政党への加入も自由。政治集会への参加も自由。反政府デモに参加しても処罰されることはない。裁判所も非常にオープンで、当事者の了承さえあればカメラでの取材も可能です。

 ドイツの司法には、ナチス政権時代への反省があるといいます。独裁者による支配を無批判に受け入れ、大政翼賛的な司法制度に堕ちてしまった過去への反省です。司法は行政と立法から完全に独立し、政府の違法行為から市民を守る立場に立ち、政府の立法を監視して、そこに憲法違反がないかを厳しくチェックすべきだという考えなのです。法治主義のもとでは、国家と個人が法の下で対等な立場に立てることが必要。そのためにも、司法が政治権力から完全に独立していなければならない。日本はどうなのか? 司法は単なる体制擁護の組織になってしまっていないか? これは大問題です。

 この映画は徹底して「ドイツ司法礼賛」になっていますが、実際にはドイツの方式にも何らかの問題点や矛盾はあるのだと思う。日本の司法制度に問題があるのはわかるが、その具体的な改善策が見えないのも歯がゆい。


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