レザレクション

1999/10/19 GAGA試写室
クリストファー・ランバートがキリスト教狂信者の猟奇犯罪に挑む。
アイデアにもう少しヒネリがないとつまらない。by K. Hattori


 黙示録の予言やキリスト教の終末思想をモチーフにした、『セブン』風のサイコ・サスペンス映画。主演はクリストファー・ランバート。監督はラッセル・マルケイ。これは傑作『ハイランダー』シリーズの顔ぶれだけに期待したのだが、最近はこの手の期待が報われたためしがない。マルケイ監督はこの映画の前に公開されたのが『タロス・ザ・マミー』ですから、それよりはだいぶマシな映画ですけどね。でもこの程度の内容なら、テレビ番組『ミレニアム』でも作れるんじゃないの?

 キリストの使徒と同じ名前の人間が次々に殺され、体の一部が生きたまま切り取られるという事件が、この映画の中心アイデア。犯人はなぜ使徒の名前にこだわるのか。なぜ体の一部を切り取るのか。死体に付けられたローマ数字の謎。これらをクリストファー・ランバート扮する刑事が聖書に結びつけ、犯人の狂信的な動機を解明していくのですが……。僕にはこの犯人の動機が今ひとつ釈然としなかった。犯人は一種の狂人ですから、その動機をいちいち詮索しても無駄なのかもしれないけど、この動機付けが弱いと、主人公がなぜ犯人の動機に確信が持てるのかという、肝心な部分まで弱くなってしまう。

 そもそもキリストの弟子は12人いるのに、なぜ殺される被害者の数は半分の6人なんだろうか。犯人が勝手に6人に減らすのは構わない。でもなぜ主人公は、犯人が6人殺すと最初から断言できたのだろう。また、最初に発見された2体の遺体には、聖書を示す数字が刻印されていたのに、3体目からはそれに言及しないのはなぜなんだろうか。3体目から刻印がなかったのか。それとも、あったけど意味がないから物語に登場しないのか。

 日本語の聖書と英語の聖書では使徒の呼び名が違うので、そのギャップを埋めるのに苦労します。マタイ伝の10章によれば、イエスの12弟子は『ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダ』ですが、これが英語読みになると、ペテロはピーターに、シモンはサイモンに、アンデレはアンドリュー、ヤコブはジェームス、ヨハネはジョン、フィリポはフィリップ、バルトロマイはバーソロミュー、トマスはトーマス、マタイはマシューにそれぞれ変わる。映画の途中まですごく気になったのは、主人公の名前がジョン、つまりヨハネであることです。ひょっとしたら主人公も犯人のターゲットになっているのではないかという不安が、常に付きまとってしまう。でもこれは、同じヨハネでも洗礼者ヨハネのことだったらしい。

 せっかく主人公をケイジャン(フランス系アメリカ人)のカトリックに設定したのだから、プロテスタントにはわかりにくい、使徒に関する伝承などを物語に盛り込んだ方が面白かったのではないだろうか。もうちょっとヒネリがほしい映画でした。普通すぎです。

(原題:RESURRECTION)


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