マリアの息子

1999/11/01 ル・シネマ2
(第12回東京国際映画祭)
イスラム教徒の少年が村の教会の神父を助ける物語。
いや〜、目から鱗が落ちました。by K. Hattori


 イランはイスラム教による政教一致を国家の方針にしている国で、しかもその教義はかなり過激。かつて国家指導者のホメイニ師が、サルマン・ラシュディという作家が教祖マホメットを誹謗したとして暗殺指令を出したこともある。宗教の前には言論・表現・出版の自由などないということを、世界中が改めて思い知らされた事件でした。そんなこともあって「イラン=イスラム教原理主義の国」という印象を僕は持っていたんですが、この映画を観るとそれとは別なイランの顔が見えてくる。物語の舞台はイラン北部の小さな村。村人はすべてイスラム教徒だが、その村には小さな教会がひとつあり、老齢の神父がひとりで暮らしている。考えてみれば当たり前のことですが、イランにもキリスト教会があるという事実にまずは驚き、イランにもキリスト教徒やイラン人の聖職者がいるということに再度驚き、キリスト教徒たちと他のイスラム教徒たちが、よき隣人として共に暮らしている様子に驚いてしまった。映画で外国の風俗を観ていると、時に目から鱗が落ちるような経験をすることがありますが、今回の映画もまさにそれ。

 イラン映画には子供を主人公にしたものが多いのですが、この映画も子供が主人公。主人公のラーマンは敬虔なイスラム教徒ですが、ある日村の教会に運び込まれた聖母マリアの肖像画に強い興味を持つ。ラーマンの母親の名前もマリアだったのだが、彼女はラーマンを生んだ直後に亡くなってしまい、ラーマンには母親の記憶がない。彼は聖母マリア像に母親の面影を見る。やがて神父が大けがをすると、ラーマンは率先して神父の看病をし、都会まで神父の弟を探しに行くことになる。都会で教会に足を踏み入れたり、カトリックの少年と仲良くなって家に招かれたりする。やがてラーマンは神父の弟を見つけて村に連れ帰る。神父は都会の病院に入院することになり、留守の間はラーマンが教会の用事をすることになる。単純な話で、上映時間も1時間11分と短めだ。

 宗教が原因で殺し合いや戦争をしている国が、世界にはたくさんある。日本人はわりと宗教に無頓着だったり無知だったりするので、「宗教が戦争の原因」と短絡的に考えてしまうこともあるでしょう。でもこの映画を観ると、もっとも対立が激しそうなキリスト教とイスラム教が、ある場面ではまったく仲良く共存している様子に驚くんじゃないだろうか。どの国の宗教対立でもそうだけど、宗教対立に見えるものの背後には必ず政治や経済面での対立があり、それが宗教によって正当化されたり強化されたりすることが、宗教対立の真の原因なのではあるまいか。イギリスとアイルランドの対立も、プロテスタントとカトリックの対立という以前に、支配者による占領地の差別政策が根底にあるわけです。これはイスラエルとパレスチナの対立も同じ。イスラエルの過酷なパレスチナ占領政策が、戦争の根底にあるのです。ただ、戦争が始まると双方の主張をそれぞれの宗教が後押しして、戦争が「聖戦」になってしまうんだよね……。

(原題:Pesar-e Maryam)


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