アデュー、ぼくたちの入江

1999/12/06 シネカノン試写室
南仏リビエラを舞台にした少年少女の恋と冒険の物語。
ちょっとノスタルジックな美しい風景が見もの。by K. Hattori


 南仏のリゾート地リビエラを舞台に、少年少女の冒険と恋を描いたファンタジックな映画。この映画に登場するリビエラは、場所も時代もはっきりしない。ロケ地もばらばらだし、時代風俗の描き方にも統一性はない。映画はある時は'50年代風であり、ある時は現代の顔を見せる。MGM映画『錨を上げて』や『踊る大紐育』に登場するようなアメリカの水兵たちがフランス人の女の子と遊び回り、水平のひとりは兵舎の食堂でタップダンスを踊っている。酒を浴びるように飲む乱痴気騒ぎの中には、マリファナその他のドラッグも登場しない。しかし同時に、劇中でかかっている音楽やファッションは現代風だったりするのです。この映画のリビエラは、過去にも未来にも存在しない架空の町です。

 タイトルがほのぼの系なので、フランスを舞台にしたノスタルジックな青春ラブストーリーみたいな先入観を持っていたのですが、映画の冒頭でいきなり少年が射殺されるというショッキングな出だしに驚きました。そこから物語は過去に戻って、ジプシーの少年オルソと、地元の少女マリーの物語が綴られて行く。物語は常に少年と少女の視点から描かれ、南仏の海はあくまでも青く澄み、波が陽光にきらきらと輝いている。この映画に登場する風景は、あくまでも美しい。しかしその美しい風景の中で、ひどく暗い物語が展開するのです。セックス、暴力、窃盗、強盗、殺人……。映画の序盤から中盤にかけては、風景と物語のコントラストが強烈。このあたりまでは、陽気で明るい世界を象徴する少女マリーと、重苦しくて暗い世界を象徴するオルソの対比が、そのまま映画の明るさと暗さを支配している。

 しかし映画が終盤に差し掛かり、マリーとオルソが結ばれたあたりから、この映画は観念的で抽象的な世界に突入するのだ。時間の大胆な省略、唐突に挿入されるエピソードや映像、移動距離や時間の無視。たぶん作り手にとっては、それぞれが何らかの意味を持つものなのでしょう。でも僕には、こうした映像のフラッシュが何を意味するのかわからなかった。オルソが無人の屋敷の中で防犯カメラに向かって銃を乱射するシーンなんて、いったこれは何なのでしょうか? 僕はこうした混乱を観ながら、『気狂いピエロ』や『ポンヌフの恋人』を思い出していた。ゴダールやカラックスは、映画全体を最後のカオスに向けて構成しているし、そのカオスも主人公たちの主観的な世界を描いていることが明白なため、映画を観る側に混乱は生じない。でもこの『アデュー、ぼくたちの入江』は、いかにもわかりにくいのです。突然現れて去って行くジプシーたちは何者なのか? マリーが小舟の上でまどろむシーンに挿入されるカーニバルの映像に、どんな意味があるのか? 最後の自動車レースで、レーサーのクローズアップを執拗に挿入する理由は何か? 僕にはこれらの意図がまったくわからない。

 監督・脚本のマニュエル・プラダルは、この映画が長編劇映画デビュー作だとか。意欲が空回りしてないか?

(原題:Marie, Baie des Anges)


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