簡単な自己紹介と簡単な年譜

氏名 服部 弘一郎 (はっとり・こういちろう)
生年月日
1966年(S41)8月3日
血液型 B+ ※B型の性格
12星座
獅子座 ※獅子座の性格
エコグラム BAAAC ※BAAACの性格
13星座
蟹座 ※蟹座の性格
ツキアイゲノム タイプ6「スタイリッシュ宇宙人」 ※詳細はキャラミル研究所を参照のこと
出身地 東京都中央区
現住所
東京都中央区
e-Mail eigakawaraban@gmail.com から転送します
使用パソコン
COMPAQ Presario 3570
余暇の楽しみ 読書、釣り、買物、料理、洗濯、昼寝
ペット
金魚2匹
愛用品

能率手帳エクセル4、PILOTの2色ボールペン、MIYATAクリックフォールディング・アクション1(変速付)、5mm幅の修正テープ、SEIKOの盲人用腕時計、MINOX 35GT、CONTAX T3、SANYO J81(H'')、B5サイズのクリアファイル、電波時計、4711オーデコロン、アスピリン

読書傾向 キリスト教周辺の怪しげな歴史について、興味本位に調べることが多い。聖書の成立史、原始教会時代から現代までの異端信仰、聖人伝、キリスト教内部に残る異教の痕跡、カタリ派信仰、中世から近世にかけての魔女狩り、東欧の吸血鬼伝説とボゴミル派異端の関係、悪霊憑きと悪魔祓いなどが関心の対象。キリシタン史についても関心があるが、まだ手を付けていない。
好きな音楽

好きな作曲家は、ジョージ・ガーシュインとクルト・ワイル。ミュージカル系の音楽はどれも好き。毛色の違うところで、一時期はスティーブ・ライヒやクロノス・カルテットなどもよく聴いた。好きな歌手は矢野顕子。若い頃はあの声が嫌いだったけど、最近は逆にあれがいいと思うようになった。

座右の銘

「来るものは拒まず、去るものは追わず」 「金は天下の回りもの。金はあるうちに使え」 「明日を思い煩うな。明日は明日の風が吹く」 「今日やる必要のないことは明日やろう」 「そのうち何とかなるだろう」「何事も適当に、ほどほどに」


西暦
元号
年齢
出 来 事
1966年 昭和41年
0

8月3日東京都中央区で生まれる
住まいは父の勤務先の社宅があった浦和市(現さいたま市)
当時の記憶が全くないので、浦和に対する特別な思い入れは皆無。

※東京都中央区のホームページ  ※さいたま市のホームページ

1967年 昭和42年
1
父の転勤により仙台市に引っ越し
行動範囲が社宅内のみだったので、言葉は標準語でした。※仙台市のホームページ
1971年 昭和46年
5
父の転勤により京都市山科に引っ越し
山科には数ヶ月しかいなかったのかな。※京都市のホームページ
1972年 昭和47年
6
父の転勤により滋賀県彦根市に引っ越し
彦根は井伊家三十五万国の城下町です。※彦根市のホームページ
1973年 昭和48年
7
彦根市立城東小学校に入学
古い木造校舎が思い出に残ってます。
1979年 昭和54年
13
彦根市立西中学校に入学
吉永小百合主演の「青い山脈」で撮影に使った学校らしい。すぐ近くにお城があった。
1980年 昭和55年
14
父の転勤により横浜市旭区に引っ越し
横浜市立鶴ヶ峰中学校に転入
坂の上にある学校だった。この当時夢中だったのは「機動戦士ガンダム」です。
※横浜市のホームページ
1981年 昭和56年
15
両親の新居購入により横浜市港南区に引っ越し
横浜市立日限山中学校に転入
この学校には何の思い入れもない。記憶もおぼろげ。
1982年 昭和57年
16

神奈川県立野庭高等学校に入学
調子にのって生徒会の副会長をやってました。この高校は平成15年に日野高校と統合されるそうです。母校がなくなるわけですが、特に何の感慨もないなぁ……。

1985年 昭和60年
19

専門学校桑沢デザイン研究所リビングデザイン科に入学
毎日課題制作とレンタルビデオ屋のアルバイトに明け暮れてました。(I61L2B)
※桑沢デザイン研究所のホームページ

1987年 昭和62年
21
銀座のデザイン会社にグラフィックデザイナーとして入社
JRや東京電力のCI計画、車のカタログ制作などのお手伝い。
※最初に仕事をしたデザイン会社のホームページ
1989年 平成元年
23
茅場町のメーカー本社にグラフィックデザイナーとして入社
日本人なら誰でも知ってる大手家庭用品メーカーで契約社員。ここでMacintoshのDTPを一通りマスター。個人的にもこの頃Macintosh SEを購入。
※転職したメーカーのホームページ
1991年 平成3年
25
宣伝会議コピーライター養成講座を受講
会社の仕事が余りにもひまなので、アフターファイブにコピー講座へ。この時期から映画を大量に観るようになる。
1992年 平成4年
26
赤坂のデザイン会社にグラフィックデザイナーとして入社
Macintosh DTPの技術を買われての入社。会社名は忘れてしまった。
1993年 平成5年
27
大門のデザイン会社にグラフィックデザイナーとして入社
主としてダイエーの突き出し広告を担当。
1994年 平成6年
28
大門にある別のデザイン会社にデザイナーとして入社
前の勤務先が閉鎖になったためクライアントである代理店の紹介で入社。しかしベルギー旅行のため半年ほどで退社したと思う。
1995年 平成7年
29
八丁堀のデザイン会社にコピーライターとして入社
デザインよさらば。ライター生活のスタート。正式な入社日は前年12月だったかもしれない。主としてインターネットやパソコンなどの広告を担当。ここは仕事も楽で給料も良かった。この会社に在席中、インターネットの映画評HP「八丁堀発・映画半可通だより」スタート。これが発展して「映画瓦版」となる。
※最後に勤めた会社のホームページ
1997年 平成9年
31
3月に会社を退社しフリーの映画批評家として活動開始
いきなり週刊アスキー連載の仕事が入るなど、スタートは順調だった。この順調さに甘えて、世の中をすっかりなめてました。
2001年 平成13年
35
現在も映画批評家として活動中
21世紀は波乱の幕開け。インターネットバブルの崩壊、IT不況、出版不況……。状況は厳しいものの、なんとかがんばっております。


戻る